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ツイッターでまとまらないこと

雑記-廃棄に伴う罪悪感が不必要なことは頭では分かっている 他

8月8日 火曜日

 

火曜日らしいけど完全に水曜日の気分だった。何がそうさせるのかは分からない。私は確かに昨日『真夏のシンデレラ』を観て宇宙猫フェイスになっていたはずなのに、水曜日の気分だった。ドラマを頼りに曜日を把握しているのに、私の脳のバグり具合がドラマ周期を凌駕する。いくない。

 

職場に色鉛筆を持参している。買ったわけではない。職場に用意しろと言われてるわけでもない。ただただ溜まっているのだ。そして消費したいのだ。

私は実家に住んでいる。生まれてから今までのほぼ全てを同じ家で過ごしている。つまり、チビの頃に使っていた物がそのまま現代まで存在している。その最たるものが鉛筆である。話の持っていき方がやや強引な気がするが、実際そうなのである。

 

鉛筆。チビの頃、鉛筆は必需品だった。切らしたら困るので常に備蓄があった。勉強に使ったり、字を書いたり、絵を描いたり、用途は様々だ。チビの頃ほど鉛筆に親しみ、共に生きる時期って無いと思う。

それが今となってはどうか。字を書かないわけではないが、そのほとんどはボールペンやシャーペンを用いる。絵を描くのはほぼ完全にデジタルに移行した。私はいきなり鉛筆と疎遠になってしまった。

 

鉛筆。いまの私の中で、その立場は非常に微妙だ。

完全に不要というわけではない。健康診断のアンケートシートとか、「2B以上の鉛筆を使ってね」といきなり指定されることもある。

かといってこんなに大量に必要かと言われると、答えはNOだ。要らん。せいぜい1ダースぐらいあれば相当持つだろうし、無くなれば買えばいい。

 

神は言う。「じゃあ使いそうな分だけ残して捨てればいいじゃない」と。分かる。分かるけど、そこで罪悪感を覚えるのが私の性格なのだ。まだ使えるものを捨てる、それがとても苦手なのだ。完全なる"勿体無い"の精神である。

 

私の周りに親しいチビっ子でもいれば一切合切まとめて寄贈したいぐらいだが、生憎そんな都合のいいチビはいないし、そもそも私の鉛筆も新品未使用というわけではない。中途半端に汚いし、人様に差し上げるのは憚られる。

 

なので職場に持って行って、ちまちまと消費活動をしている。捨てられない、でも使う機会もあんまり無い、だったら少しずつでも仕事で使ってしまおうという理屈だ。正直いつになったら全て使い切れるのか、全く検討がつかない。数年かかるかもしれない。職場がペーパーレスを導入したらそこで終了である。のんびりのほほんな会社なのでペーパーレスもギリギリまで渋ってくれると信じたい。俺の鉛筆消耗に協力してくれ、弊社。

 

鉛筆に限らず「ものを捨てる」というのがとても苦手だ。完全に使用できないものなら諦めもつくが、中途半端に使えるものだと悩ましくなってしまう。だったら捨てずに取っておけば?と思うが、それはそれでストレスになる性質である。めんどくせえ。

なのでフリマアプリ・古本・古着屋・不用品回収サービスの存在はとてもありがたい。手間はかかるが、それよりも「捨てたわけではない」という安心感が何よりのメリットである。ついでにちょろっとお金をもらえたりもするし。Win-Winってこういうことだと思う。

 

でもまあ、手間といえば手間だし、スパッと潔く捨てられる方がタイパ(最近知った単語)的にもよろしいのだとは思う。まあ良い。性格ってそう簡単に変わらないので、時間に余裕があるうちはちまちまと消費したりお譲りしたりしていこうと思う。というか、きっとそうする。

 

 

ここまで書いといていま唐突に気づいたのだが、この貧乏性、多分祖父譲りだ。部屋に物があふれ、ポロシャツを穴が開くまで着ており、黒線が入ったテレビを「まだいける!」と主張する祖父。まんまではないか。そう思うと途端に捨てたくなってきた。遺伝って恐ろしい。それはそうとテレビはいい加減諦めてほしい。12年間毎日使ったのならもう寿命だと孫は思います。

 

 

明日は水曜日。実は明日を最後に盆休み突入だったりする。良いだろう。

かといって何をするわけでもない。何せ暑い。暑すぎる。外に出る気力も体力も削がれる。

何よりも一番にいのちだいじにをモットーに行動するつもりだ。余裕があれば、創作活動など出来たら良い。新しいiPhoneも届いたことだし、スマホケースのデザインも新調したい。あとデータ移行もしなければならない。案外忙しいかもしれない。

 

ではまた。皆様も何卒お身体ご自愛ください。