のらりくらりくるりゆるり

ツイッターでまとまらないこと

左右盲の憂鬱

左右盲とは:とっさに左右が分からない人のこと。

 

左右盲という概念を知った時、あまりにも「これは私だ」と思った。大した問題ではない、「とっさに分からない」なので、ちょっと考えれば左右を判別できる。しかし瞬時に判別できる者と比較すればどうしたってワンテンポ遅れる。ストレスというほどでもないが、常に地味にモヤっとしていた私にとって"この現象に名前がある"ということ自体が光明であった。インターネットはありがたい。

 

しかし名前がついたところでわからんものはわからんという側面もある。ので、この地味なモヤっとについて文字を書き殴り、モヤっとボールを伊東四郎に投げつけるように鬱憤を晴らそうと思う。

さらりと書いてしまったが、モヤっとボールって現代っ子には通じないかもしれない…と思いググったところ、IQサプリの放送終了は2009年らしい。当時生まれたエケチャンがそろそろ高校生になる頃合いだ。嘘だろ…?

 

・「向かって右側のドアが開きます」と言われて左側に行く

もうドアに色とかつけといてほしい。右は赤、左は青とかでベタ塗りしてもらって「赤い扉が開きます」とか言ってほしい。それなら分かる。色盲の方には優しくないが。

 

・「次の角を向かって左に曲がってくださいね」「どっちですか!?!!?」

運転免許の教習中の話である。ただでさえ運転をしているというだけでパニクっているので、左右を考える余裕がなかった。教官の顔を見たわけではないが、明らかに衝撃を受けていたと思う。そりゃそうだ。よく免許取れたな…今となっては完全ペーパーだけど…

 

・『お箸を持つ方が右』『鉛筆を持つ方が右』

幼稚園でのこの刷り込みが勝手に諸悪の根源だと思っている。私はお箸は左、鉛筆は右で持つ人間である。知らんがなと言われればそれはそう。

 

・視力検査、ほぼ脳トレ

地味に今いちばん困るのはこれかもしれない。小さい頃は開いてる方を指で指すというやり方でやりすごしていたが、さすがに大人になると羞恥心が勝る。ので、必死で毎回左右を考えて答えている。見えてないんじゃないんです、左右が分からないんです。

 

この世、左右が分かる者向けに作られすぎている。(そりゃそう)

もうお天気お姉さんが持っているみたいな指差し棒を常に携帯していたい。なんらかの力で音声を聞き取り、「右」といえば「こっちだよ!」と教えてくれる何かが欲しい。しかし左右がとっさに分からないというだけでそんな不気味な棒を携帯しなきゃいけないのも癪である。やめておこう。

 

最後に、同じく左右盲の方向けに私の左右の考え方を伝授しておく。

色々試してみたが、これが一番明確で間違えることがない方法である。

 

左右が分からなくなった時、頭の中にクソデカ文字を召喚するのだ。

 

左   右  と。

 

必ず横書きで召喚するのだ。横書きで「左右」と書いた時、左の方が左で、右の方が右だ。左右が分かる人には何言ってんだコイツと思われるであろうが、これが一番わかりやすいのである。「さゆう」と漢字で書いた時に左の方が左で、右の方が右なのだ。きっと左右盲の者のために「みぎひだり」ではなく「さゆう」なのだ。知らんけど。

 

左右盲の仲間たちが参考にしてくれると嬉しい。

また、左右盲でない者は左右盲の者が左右で思考停止している時に(あ、今こいつは左右を考えているんだな…)と思ってくれると嬉しい。左右以外のことを考えてる可能性もなくはないが、ワンテンポ遅れても不審に思わないでほしい。怪しいものではありません。左右を考えています。

 

ホスピタルの待合室でこれを書いていたらいい感じに呼ばれたので終わります。

皆様に良い左右盲ライフのあらんことを。

 

運の良さだけで生存してる

私は私のことをそれなりに幸運な人間だと思っている。なんなら運の良さぐらいしか誇れるところがない。今の私の精神の安定は、ただただ運が良かったからと言っても過言ではない。

 

まずは頑丈な母の元に生まれたこと。かつての弱った私を前にして、取り乱すことも壊れることもなかった母。根源である私が言うのもアレだが、本当にすごいと思う。夜になる度に私から繰り出される罵詈雑言を前にして、狂わなかったのは本当にすごい。私が同じ立場だとして、同じように振る舞える自信がない。だから子供は欲しくないな、と思う。もしいたら、私が子供を壊しかねないので。

 

たまたま近所に相性のいいメンタルクリニックがあったこと。通い始めてから、もうかれこれ10年が経とうとしている。最初に訪れたところはどうにも信用ならなくて、今の病院は2軒目だ。電車が怖くて遠くまで出歩くことができないので、とにかく家から近い病院を探したのを覚えている。私の話を馬鹿にせず、平坦なテンションで聞いてくれる他人が近くにいた。幸運でしかないと思う。

 

皮膚科もそうだ。こちらは近所にはなかったけれど、前の皮膚科に見切りをつけ、転院してすぐに大学病院の紹介をしてもらえた。たまたまその時に開発されたばかりの新薬があって、たまたまそれが私の身体にぴったりと合った。それまでのあちこちが爛れて膿んだ肌が嘘のように綺麗になった。今でも自分の肌を触るたびに感動する。特に膝の裏の皮膚。昔の私のここは固くひび割れていてまるで象のそれだったのに、今は赤子のほっぺように柔らかい。嬉しい。

 

家も裕福ではないものの、それなりに余裕があった。明日のご飯に困るほど貧しいわけではなかった。家を出た今もそれなりに楽しく暮らせている。職だってほぼコネ入社のようなものだ。曲がりなりにも高校を卒業し、やっとこさ動けるようになった時期に、たまたまあそこの席が空いてるよと言われたからそこにすかさず座っただけだ。就活もまともにしていない。溢れるやる気があるわけではないが、居心地のいい職場なので無理なく続けられている。本当にありがたいと思う。

 

他にも挙げればきりがないが、全部全部ただの幸運なのだ。私が自分の力で手に入れたものなど何一つない。母も医療も職も家も、全部運だ。たまたまラッキーだっただけだ。

感謝する気持ちはもちろんある。だがしかし同時に恐れる気持ちもある。こんなに運に甘やかされていて、未来でそれに見放された時、私は本当に生きていけるだろうか?

今までが何とかなったからといって、それが永続的に続くなんてことはない。今でこそ外に働きに出ていられるが、かつての症状がカムバックしない保証はない。私に不幸がない限り、母も医者も私より先に死ぬだろう。未来に確証や約束なんてものは存在しない。

 

だから鍛えなければと思っている。今のうちに。体が言うことを聞くようになった今のうちに。今までの私はただ周りに生かされていただけだ。全てが無くなった時に生きていけるように、今のうちに鍛えておかなければならない。絶望して、また周りを加害しないように。

 

…と、頭では分かっていてもなかなか動けないのが私の嫌なところだなと思う。焦っているはずなのに、同時に実感が伴っていないのだ。実感が伴っていなくて、行動を先送りにしてしまい、それがまた焦りを増幅させる。いやな堂々巡りである。根が怠惰だなぁと常々思っている。

 

齎された運の良さを無駄にせず、何なら分け与えられたらいいのに、と思う。それができるぐらい優しくて強い人間になりたいものである。今はまだ夢のまた夢の話だけれど。

240316はじめてのよあそび記録

・はじめに

YOASOBIのライブに行ったわけではなく、夜遊びの方である。漢字の方である。3月16日にティプシーという、レズビアンバイセクシャル女性限定のクラブイベントに参加した。そういうイベントも初めて、クラブに行くのも初めて、そもそも21時以降に外を出歩くことが滅多にない箱入り娘の冒険の記録としてこれをしたためたい。

 

・装備

黒のレース地に花の刺繍をあしらったワンピース。この服は見た目の華美さと着心地の良さが両立しているところがお気に入りである。短時間ならまだしも長丁場に可動域を狭める服を着るのは苦しい。

チャンキーヒールのメリージェーンパンプス。細いヒールは怖い、ストラップがないパンプスは高確率で脱げるというフォーマル適正が低すぎる女でもちゃんと歩ける靴である。世の中の女性は足が強すぎる。お洒落は我慢ということだろうか。正直あまり我慢はしたくない。

Loopというブランドのライブ用耳栓。これが最重要アイテムであった。私は爆音が苦手である。敬愛するアーティストのライブですら、地響きのような轟音が響き渡ると感動よりも恐怖が勝る。そんな人間の恐怖を良識的なレベルまで引き下げてくれるとても優秀なグッズだ。開発者に感謝。正直この耳栓をつけた上でも充分大音量だったので、耳栓が無かったらうるささのあまり早々に発狂&退場していたと思う。この爆音の中を裸の耳で過ごせる人間、耳が強すぎる。

 

・前準備

イベントは23時からだったので、その日の昼から夕方にかけて昼寝をした。疲労と睡魔は減らせるに越したことはない。

18時ごろに夕食を摂り、その後にコンサータという薬を飲んだ。この薬、一般的にはADHDの治療薬として使用されているらしいが、私にとっては多動というよりも日中の眠気を吹き飛ばしてくれるものという認識が強い。基本朝食の後に飲むもので、これを飲まないと私は夕方頃には撃沈してしまう。夕食後に飲むのはあまり勧められたものではないかもしれないが、おかげで夜中の間は一切眠気が襲ってこなかった。効果てきめんすぎる。

 

・イベント前

前述したようにイベントは23時からだった。しかし、私は20時には現場付近に到着してしまった。時間配分が下手くそにもほどがある。

3時間もの間そこらへんのベンチに座ってるのも味気ないので、周辺の夜の繁華街をぽつぽつと散歩していた。歩ける靴を履いていてよかった。

夜の街は新鮮であった。この時間でもこんなに明るくて、賑やかで、人々が活気づいているのだと初めて肌で感じたような気がする。もちろん知識としては知っているが、体感として知る機会がなかった。春の夜風はほどよく生ぬるくて心地よかった。煌々と輝く街灯の灯りが境目のくっきりとした陰影を作っていた。

この時間でも人々は活動をしていて、工事現場で働く人がいて、白木蓮も咲いたままで、歩くのに困らないほど明るいのだ。知らなかった、と思った。知っていたはずだけど知らなかった。この時間は私にとって夜で、即ち寝る支度をする時間で、一日が終わる時間だった。その時間でも一歩外に出てみればこんなにも世界が明るい。一日は私が思っているよりずっと長いのだと知った。

もっと早く知れていればと思った。酔っ払いの罵声に怯えながら無理に寝ようとしなくても、外に出ればこんなに明るくて清涼な空気が漂っているのだ。もちろん過去の私にとってまるで現実味がないことは分かっている。しかし一日は長いし、世界は広いのだ。一体何を囚われていたのだろうか。私は足枷の幻覚を見ていたらしい。目から鱗、ではないけれど、今更すぎる、遅すぎる気づきへの衝撃で少し涙が出た。

 

・イベント

初めてだから当然とはいえ、何も勝手が分からなくて困惑した。ある程度は想定していたとはいえ、目の当たりにするとまた違った実感がある。

最初は緊張していて何をどうすればいいか全く分からなかったが、周りの様子を見ていて結構自由に話しかけていいのだな、と分かった。そういうイベントなんだからそりゃそうなんだけど。

誰も知り合いがいないので、逆に旅の恥は掻き捨て感覚で話しかけることができた。そういうところは妙な度胸がある。自分でもそう思う。

いろんな人がいた。恋人を探しに来ている人、友達を探しに来ている人、何回も来ている常連の人、私と同じく初めての人もいた。年代も幅広い。話した中で一番若い人は19歳と言っていて、その年齢で自分のセクシュアリティを明確に自覚し、彼女が欲しい!と行動できていることに驚いた。一般的には当たり前なのかもしれないが、私はそこまではっきり自分の性志向が分かってない。女が好きな女の友達が欲しい〜と思って参加したが、彼女は5歳も年下なのにとっくに先へ行っている。

話は変わるが、『彼女が好きなものは』という映画がある。作中で神尾楓珠演じるゲイの主人公に当たり前のように既婚者のセフレがいる。当たり前のように描かれているので当たり前なのかもしれないが、高校生の段階で「性志向を自覚し」「それを受け入れ」「相手を探すための行動を起こし」「結果を出して」いることに対してすげえな……!?!と思ったものだ。それだけ彼にとって切実な問題だったのだろうと想像はするが、自分に置き換えると全く想像がつかない。彼と私は性別が違うし、性的欲求の強さも人それぞれとはいえ、高校生………高校生ぞ…………!?となる。

話を戻そう。最初こそガチガチのコチコチに緊張していたが、長く居座っていると顔見知りの人も増え、いろんな話も聞けて楽しかった。それぞれに事情は違えど、ここにいる人は全員「女好きの女」なんだな…と思うと不思議な高揚感があった。同性愛者・両性愛者への理解が進んできた昨今とはいえ、それはあくまで理解でしかなく、インターネット上以外で共感を求めることはなかなか難しい。しかしこんなに沢山いるのを目の当たりすると、こんなにいるんだな…という不思議な感慨があった。何もかも刺激的で、未開の地に足を踏み入れたような感覚だった。来てよかったと思った。ちなみに合計5人と連絡先を交換しました。結構すごくない?コミュ下手オタクにしては頑張ったと思わない?褒めていいよ

 

・イベント後

薬のおかげか眠気を感じることは全くなく、日が昇る前の早朝の街をまた歩いて帰った。相変わらず外は暗く、しかし街灯の光はぼんやりとしていて、人通りが少なくて、これはこれで別の街のようだった。時間帯によって街の表情が変わるという至極当たり前のことすら私には新鮮だった。無知が過ぎる。

シャッターの降りた商店街を歩く。ほとんど人がいない。ここなら踊っても多分誰も見ていないし、見ていたとして「踊っているな」としか思われないだろうな、と思った。踊らなかったけど。

始発電車で帰り帰宅すると猫が真っ先に気づき、ご飯及び愛撫を要求してきた。この子に夜という概念はないらしい。夜遊び用の華美寄りの化粧を落とし、布団に寝転んだ。外が明るくなり始めていた時間にどうにか寝ることができた。

 

・後日談

翌朝、というか昼にどうにか起きたものの、意識的な薬の飲み忘れにより頭がくらくらした。今日が休日でよかった。この状態で仕事などあっても何もできない。母も仕事が休みだったので、家事その他諸々の全てを母に押し付けてごろごろとしていた。頭は痛いが食欲はあったので、母謹製のクリームシチューを食べた。美味しかった。

夕食後にいつも通りのタイミングでいつも通りの薬を飲んだら無事体調が落ち着いた。慣れないことをするのはリスクが伴う。そして薬に生かされすぎている。メンクリ10年選手のため、今更嘆いても仕方がないが。

 

・まとめ

慣れないパンプスで30000歩歩くのはあんまり良くない。歩いている最中は楽しさで忘れていたが、帰宅した後まあまあ足が痛かった。調子に乗る勿れ。あと時間の3時間前に着くな。

次回があったらスニーカーを履こうね。過去の私との約束だよ…

もしも時間を遡れるのなら、両親が出会うのを阻止する

最近タイムスリップもののドラマが多いように感じる。『ブラッシュアップライフ』とか『時をかけるな、恋人たち』とか『不適切にもほどがある!』とか。ドラマは比較的視聴者の願望が反映されやすいエンタメだと思っている。皆そんなに過去をやり直したいのだろうか。

 

こういうドラマを観ている時、もし私がタイムスリップできるなら両親の出会いを阻止するな、と思う。

すごく心配されそうなので人に言ったことはない。でも、そんなに暗い思想だとも思ってない。「死にたい」とは違う。死ぬのは痛いし、苦しいし、有難いことにそこそこ周囲に愛されているので、その人たちを悲しませたいとも思わない。途中でやめたいのではなく、最初から無かったことにしたいのだ。最初から無いのなら、誰にも記憶されていない。私の意識もない。痛くもないし、苦しくもないし、誰も悲しまない。ならばそれが一番良いような気がしてならない。

しかしそんなことは現実的に不可能である。不可能なことを考えていても仕方がないので、それなりに楽しく生きられるように努めている。うっかり生を放棄したくならないように、好きなものを増やすべく行動している。

 

今日、『52ヘルツのクジラたち』という映画を観た。主人公が育児放棄された子供を拾って家に住まわせ、家族として生活を営んでいた。

 

私がやりたいことはこれだなぁと思った。不謹慎かもしれない。しかし、結構前からずっとそう思っている。新たな命を産みたいわけではなくて、もう既に産まれていて、生まれた上で苦しむ子供を少し楽にしてやりたいのだ。

しかしそれもまた夢物語なのだろうとも思う。大体がそういう子供は助けを求めることができない。運良く映画のように求められたとして、私のような技術も何もないど素人にできることなどたかが知れている。もっと他にプロフェッショナルがいる。だからこれは夢だ。あんなこといいな、できたらいいなのドラえもんレベルの話である。

 

前述したように私には結婚願望がない。率直に言って良い印象が全く無いからだ。だからこそ両親を出会わせないようにしたいとか思うわけで。

もちろんこれは現時点での私の思想だ。もしかしたら将来的に此奴の遺伝子を何が何でも奪ってやろうと思えるレベルの異性が現れ、子供を欲しいと思うこともあるのかもしれない。それは分からない。未来の自分など知る由もない。

 

どうもまとまらない文章を書いてしまった。あまりにうすらぼんやりとした願望である。産む勇気はない、でもどうせ産まれてしまったなら笑顔でいてほしい、その一助になりたい、ただそれだけの話だ。

何ができるかなと考える。今の私にはきっと何もできないように思う。やはりどちらにせよお金を貯めておくのがいいんだろうか。マネーイズパワーなので。

 

私の生によって誰かが楽になったなら、きっとそれは幸せなのだろうと思う。

そんなことがあったらいいな、とあるかわからない未来に期待している。贅沢かもしれないけれど。

 

雑記-家に帰ると猫が給餌器を破壊している

2月15日 木曜日

 

外に出るなりいきなり暖気が押し寄せてきて驚いた。今は2月ではなかったか。ようやく梅の花が咲く頃合いではなかったか。ダウンなど着ようものなら即のぼせそうなこの陽気、勢い余って桜も咲いてしまいそうな気温である。盆と正月は一緒に来ないが、梅と桜はあわよくば同時に咲いてしまいそう。そんなことある?

 

先月末に家出をし、つい先日新居に猫を迎え入れた。新居での生活は概ね快適であるのだが、一点どうしようかと頭を悩ませていることがある。猫のことだ。

新居に猫を迎えるにあたり、自動給餌器を購入した。今までは朝昼晩の3食を誰かしらがあげていたが、新居では私も母も働きに出ているため、昼に餌をあげる人がいない。そこを文明の利器にカバーしてもらおうという魂胆だった。

 

自動給餌器は問題なく動いた。問題は猫だった。

自動で出てきた餌をすぐさま平らげた後、自動給餌器に向かって戦いを挑んだのだ。

 

正直そうきたかと思った。もともとうちの猫が食い意地が張っているのは分かっていた。どう見てもよその猫とがっつき方が違う。餌を出したらすぐさま飛びかかり、一瞬にして平らげてしまう。そして「もっとくれ」と言う。言ってないが、伝わるのである。言語どころか種属を超えたコミュニケーションがそこに成立している。

一応お医者様にも「これ以上増えないようにね☺️」と柔らかな牽制を受けているため、言われるがままにあげるわけにもいかない。対人間であれば猫もそれなりに諦めてくれた。しかし、相手が機械だとそうもいかないらしい。

すごい。我が猫ながら結構すごい。自動給餌器への戦いの挑み方が。餌が出てくる口の部分に手をつっこんで、言うなればがっぷり四つ的な、おまえは本当に猫か?と問いたくなるような戦いの仕方をしている。

完全に舐めていた。我が猫の食い意地の張り方を。容姿端麗眉目秀麗の猫(親バカ)でありながら、その食い意地は完全に飼い主に酷似していた。そんなところは似なくていいのである。

 

現状まだ破壊には至ってない。しかし、正直遠くない未来に"その日"が来そうな予感がする。破壊された給餌器、完全に外れた蓋、中から溢れ出る大量の餌、それを貪り食う猫────。

 

猫や、食欲があるのは良いことだね。でもね、そのご飯を食べるのはおまえしかいないんだ。そんなに貪るようにかっこまなくても、誰も取りやしないんだ。落ち着いて、急がずに食べてくれていいんやで。

いや、わかるよ。目の前にご飯があったら食べたくなるよね。それは私も同じなんだ。目の前にお菓子があったら結構な勢いで食べてしまって後から苦しくなったりするよね。完全におまいう案件だよね。うん。

 

……ダイエット、頑張ろうね…猫……ついでに私も…………

 

 

お引越しして20日ぐらい経ったった

〜これまでのあらすじ〜

祖父が酔って暴れて家族総出でバトった結果、母と私まとめて家出することになっちゃった!これからどうなるの〜!?☆

 

……という状況から20日ほど経過しましたので、現在の所感を書き連ねていこうと思います。

それではいってみよう!

 

・新居、ぬくい

本当にぬくい。実家が木造2階建で新居はコンクリート集合住宅なんだけど、本当に全然違う。なんで違うのか理屈は分からないけど本当にぬくい。極寒の日じゃなかったら暖房いらん。部屋が狭いから暖房もすぐ効く。実家寒すぎる、何だったんだ

 

・新居、静か

家の造りのせいなのか、酔っぱらいじじいがいないせいなのか。多分前者寄りの後者。

テレビをつけっぱなしにしてる人の気持ちが今まで分からなかったけれど今なら分かる。静かすぎると逆に不安になるということを初めて知った。

実家では基本ノイズキャンセリングのヘッドホンつけてたけど、今は全く要らない。なんならインターホン聞こえなくて困っちゃうよ…家に居るのに不在票入れられちゃうよ…

 

・新居、広い

もちろん面積的には実家の方が広いんだけど、精神的にめちゃくちゃ開放感があるからか広く感じます。じじいの圧が無いから…

 

・新居、掃除が楽

広い家、すなわち掃除がめんどい。狭い家、掃除すぐ終わる。コードレス掃除機の充電が切れる前に掃除が終わる。新鮮。

 

・新居、皿洗いがすぐ終わる

新居はあんまり関係ないですが、単純に居住人数が減った&洗い物したくないから皿の数を減らすのに尽力する=皿洗いがスピーディという至極当たり前の現象が起きています。

皿洗うだけで1時間経過してたけど今は15分で終わる。楽〜〜

 

・新居、ポストに鍵がある

当たり前と思われるかもしれませんが、実家のポストには鍵がなかった。言われてみればめちゃんこ無防備だよね、人目さえなければ盗めるやん。

 

・料理、案外ちゃんと食べられるものができる

実家では祖母が2時間ぐらいかけてパーフェクトな夕飯を作っていた(有難いね)ので、恥ずかしながら私はあまり料理をすることなくこの年まで来たんですが、恐る恐るやってみたところ案外美味いものができるな…ということに気づいて感動しています。もちろん簡単なものしか作ってませんが、塩加減とか自分好みにできるので楽しい。最近は冷凍うどんとしょっぱいものを混ぜたら大体美味くなることに気づきました。才能があるかもしれない。

 

・なぜか体重減った

なぜなのかは本当にわからない。家におやつが無いから過食が落ち着いた?何にせよやっぴ〜この調子であと3キロぐらい落ちろ〜

 

・洗濯機が自動で水を計ることとかあるんだ

もはや新居関係ない。実家の洗濯機はもう10年ぐらい使ってますからね…そりゃ安物でも新しいやつの方が高性能なんだよなぁ…

 

・お風呂の温度の塩梅ムズい

新居の唯一の不満ポイントかもしれない。温度指定ができないので、お湯と水を出してちょうどいい温度を探すしかない。実家のお風呂は設定さえすれば例のメロディで「お風呂が沸きました🎵」と言ってくれる優秀なヤツだったため、ジェネレーション(?)ギャップがある。

 

・日時指定を大幅にズレたお荷物が来る

実家でも一応日時指定はしていたが、大人が4人もいれば誰かが家にいることがほとんどのため、時間がずれてもそんなに困ることはなかった。が、今は困る。指定の時間だったら家にいますから!!その時に来て!!!(宅配ボックスとかいうしゃれたものは無い!!!)

 

・布団乾燥機は最高

メ○カリで購入した布団乾燥機、あまりにも最高。お布団がぬくいこと、それ即ち幸福です。ぬくいです。幸せです。何となく寝つきも良くなった気がする。よかったね。

 

・新居、コンビニが近い

某全国展開24時間営業のコンビニエンスストアがめっちゃ近い。うっかりお菓子を買ってしまいそうで怖い。耐えろ!

 

・テレビが突然切れない安心感

実家のテレビは例の如く12年前に購入したものですからね…ドラマ見てて良いところでブチッと切れた時は発狂するかと思った。

 

・うっかり裸族になりがち

正確には裸とまではいかないが、母ひとり娘ひとりだとお互いに隠すものが無さすぎるため無法地帯になりがち。やめなさい。それこそ佐川とか黒猫とか来たらどうすんだ。

 

・ネコチャンがいない…………………

まじで(私が)寂しいのでどうにかしなくてはならない。一応連れてくるつもりではあるけれど、猫って環境の変化でストレス受けるとか言うじゃん。まじで不安。しかし私の寂しさを癒すのはネコチャンしかいないため、ネコチャン各位には申し訳ないがエンヤコラと慣れていただくしかない。耐えて。私のために。()

 

 

………こんなところだろうか。半分ぐらいじじいの悪口を言ったような気がするが、まあ事実なので仕方がない。

概ね快適!というかめっちゃ快適!四六時中うるせー人がいない静かな家、めっちゃ快適!やったー!

気持ち自由時間が増えた気さえするので、よりオタ活および趣味活に邁進していきたいですね!!

 

あとはもう、ネコチャンさえ連れてきて慣れてさえしてくれれば最高の住処になってしまうな…

 

……ネコチャン……頑張って……私のために………🥹

 

 

 

 

 

 

メンヘラは生への圧倒的肯定を見ると謎に凹むらしい

 

映画『ゴールデンカムイ』を観ました。

 

正直慄いていました。推しが出ているので観に行きましたが、普段であれば絶対に観ないタイプの作品。もちろん作品名は存じていたのですが、その、ガチムチ男性陣の二次創作がいっぱい流れてきていたので、どちらにせよ観ようとはあまり思わないタイプの作品でした。私はめんどくさくてかわいい女性が好きなので。ガチムチ男性、あんまり興味ないので。

しかし推しが出ていた。推しが出るからには観ねばならない。食わず嫌いはよろしくない、聞きかじった情報程度で趣味に合わないだろうという偏見はよろしくない。せめて観てから何を感じるかを噛み締めるがよろし。そう思って観に行きました。

 

結論から言うと、私には正しすぎると思いました。この物語は私には正しすぎる。

元々懸念していたような、「ファンタジー(ではないが)についていけるかな…」とか「アクションで酔わないかな…」とか「メンズばかりで混乱しないかな…」とかいう点は問題なかったです。一応ちゃんとついていけたし、酔わなかったし、混乱もしませんでした。

 

ただちょっと正しすぎた。その事にかなりショックを受けたというか、そう感じた自分にびっくりして少し泣いてしまった。情緒不安定か…?

 

何と言うか、物語全体から滲み出る"生"への執着と肯定が、あまりにも眩くて正しくて、それに沿えない自分の歪さが浮き彫りになったような気分になった。そのような意図は全くないであろうところが逆に突き刺さった。

 

何もかもが正しいと感じた。アシㇼパを守りたいという気持ちも、金塊を探す理由も、父を殺されたことへの怒りも、絶対に生き延びるという心意気も。

私はそれに共感できない。そこまで他者を愛せないし、怒れないし、苦しみ痛めつけられて生きるぐらいならさっさと手放すと思うから。そんなに生に執着できない。そこまで大事なものだと思えない。

しかし、この物語の中でそれらは圧倒的な正義だった。正義じゃないと否定したいわけではない。むしろ逆だ。頭では正義だと分かっている。それが一般的に美しく、正しいものだと分かっているのに心が添えない。それがどうしようもなく寂しかった。

 

どうせ皆美しく正しいものが好きなのだ、という半ばいじけたような気持ちもあったかもしれない。愛する人のために命をかけて金塊を探せる青年が好きなのだ。父を喪って怒りを覚える勇敢な少女が好きなのだ。2人とも他者に対する愛を湛えていて、それに裏付けられた欲には濁りがない。そういうものが愛されるのだ。そういうものが正しいとされるのだ。私が持ち合わせていない、そういうものが。

 

もちろん彼等と私とでは生きている背景が違う。時代も違えば環境も違う。しかしこの映画を、ひいてはこの作品を観ている人は同じ現代に生きている人間である。この正しさを浴びて快感を味わえる人間がいることにひどく焦りを感じてしまう。別に皆が皆同じ感想を持たなきゃ!みたいなことはないと頭では分かっているのだが。

 

作品を批判したいわけでは決してない。むしろ、そう思った自分に対してもう少し考えを練る必要があると感じている。

全ての作品を肯定する必要はない。それはそう。ただ、全く楽しめなかったわけでもないのだ。それなのに寂しさや焦りや劣等感も同居している。どうにも不思議な感覚すぎる。もうちょっと時間が経てば咀嚼できるのかもしれない。

 

長々とややこしい感想文を書いてしまった。ある意味貴重な体験だったように思う。感情の引き出しは多いに越したことはないので。

 

というかものすごく続編作る気満々の終わり方でしたね。一体完結までに何年かける気なんだ。

時間が経過したらまた見え方が変わってくるかもしれないので、それはそれで楽しみにしてます。生きよう