のらりくらりくるりゆるり

ツイッターでまとまらないこと

人生における人間のサンプル数がとても少ない

母(ぼ)集団から確率的に標本を抜くこと。抽出すること。そのようにして抜き取った一組。

ここで言うサンプルとは上記の意味である。解説文はGoogle先生から拝借した。他にも見本とか試供品とかの意味合いがあるが、人間の試供品とか言い出したらさすがにサイコパスみがすごい。

 

最近このことをよく考えている。今まで生きてきて、きっと人より出会った人間の数が少ない。友達が少ないとかそういう話ではなく、そもそもの母体が少ない。関わりを持つ以前の問題だ。出会わなければ関わりは持てない。

インターネット上ではそうでもないと思う。ありがたいことに良くして頂いているし、何人かは実体を携えてお会いしたりもしている。のでここはちょっと置いておこう。あくまでインターネットを介さない関係性の話だ。

 

多くの人はそれぞれにそれぞれの常識を持っている。常識というぐらいだから、それぞれに自分の中の常識こそが一般的なそれであると認識している。実際には他者との間に大きな差異があれど、それはさておき「これが常識だ」と思っている確かなラインがあると思う。

その常識は何によって構築されるのかというと、やはりそれまでの経験だったり、環境だったりするのだろう。誰と出会うか、誰と関わるか。どんな言葉に傷つき、喜び、絶望を覚えるのか。そういうものを重ねてその人なりの常識を形作っていくのだと思う。

 

そういう本来積み重ねるべきものがとんでもなく少ないような気がする、という話である。

「誰と出会うか、誰と関わるか。どんな言葉に傷つき、喜び、絶望を覚えるのか。」

自分で書いておいてアレだが、こういう経験がマジで少ないと思う。もちろん全く無いわけではない。家族はいるし、友達も少ないなりにはいなくはない。だが少ない。圧倒的に少ない。

 

こういう経験って多くは多感と言われる思春期に大まかな礎が出来るのではないかなーと勝手に思っているのだが、まあ、その時期の私はしっかりと不登校児だったので、やっぱりそこらへんから来る欠乏感なのかなーと思わなくもない。

だが、正直学校に行っていたところで大して変わらなくね?という気持ちもあるのだ。己の性格的に。

 

大体が保守的な性格をしているのだ。人と深く関わろうとしない。人に自己を開示しない。まず人を疑ってかかる。心の底から分かり合える、などということは起こり得ないと思っている。

今でこそ少し人に興味が持てるようになってきたが、学生時代の私はもうゴリゴリのコテコテに上の文そのまんまだった。そのまま機械的に登校を続けられたところで、今と大して状況は変わらないように思う。なんならインターネットという文明の利器を手にしたことで人に興味を持てた節もある。不登校でなかったらSNSすらもしていなかっただろうから、結果的には不登校で良かったのかもしれない。

 

きっともっと人と会話をした方がいいんだろうな、と思う。私は自分自身とだけ会話をしすぎて、視野は狭く思考は凝り固まっている。味のしないガムをずっと噛み続けているみたいなものだ。ずっとずっと捏ねて捏ねて行き詰まるより、さっさと新たな味を放り込んだ方がいいのだ。

優しさとは想像力で、想像力は知識だと思う。知識は自分の中から生まれることはない。ので、外から摂取しなければならない。

 

 

とはいえな〜〜〜〜〜とはいえなんですよね〜〜〜〜〜今でも全然土台が保守的なんですよね〜〜〜〜〜自分が人に与えた影響の責任全く取りたくないんですよね〜〜〜〜〜何なら影響すら与えたくないんですよね〜〜〜〜〜ダメだこりゃ ダメですよ はい

一体何をどうしたら社交的な人間になれるんだろうか?人を恐れずに済むんだろうか?って考えて、全部上っ面モードでいけばいいんかな?とか思うんだけど、その思考に行き着く時点で開示する気がなくてダメ。悔い改めなさい。

 

 

だから、えっと……私が言えることは……

 

学校は行けるなら行っといた方がいいと思います……たくさんの同世代を毎日拝める機会ってマジでそうそうないので……いや無理してまで行く必要ないけど………無理のない範囲で……健康第一で………はい………………………